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劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

演劇の目で観たスポーツ 終わりに (前編)

いつも正しい言葉とサッカー

演劇の目で観たスポーツ 終わりに (前編) _b0080239_1963787.jpg演劇の目で観たスポーツ」4回に渡って2005年フレンチオープンテニスの記事を書いたものの、私は自分がテニスをやることにかけてはちっとも熱心でない。遊ぶなら海に行く方を選ぶ。
 それにニュースを通じて耳にするアスリートの発言よりも、『RIDING GIANTS』『STEP INTO LIQUID』などの映画で聴く、ビッグウェーブに乗るトップサーファーの言葉の方が、輝きを放ちながら頭に入ってくる。(追記:『RIDING GIANTS』の短い記事を書いた。2007.1)

 それでも6月から7月中旬にかけて、06年フレンチオープンテニスとウィンブルドンの放送を夢中で観た。

 目的は「演劇の目で観たスポーツ1・2」で詳しく書いたとおり、可視・不可視の研ぎ澄まされたリズムを伴うパフォーマンスとして観るためだ。
 ボールを捉える時、アスリートの身体は複雑に科学的に動く。だが、実際はあまりにも速く鋭いので目だけでは把握しにくい。現場でヒッティングの瞬間の音を聴き、音として現れないリズムを感じると、選手の驚異的な技術の一端が見えてくる。
 また今年、スロー映像で観た選手の身体は、観る者の主観やイメージの立ち入る余地のない、なにか純粋な出来事に向かっているように思えた。

純粋というのは単純ということではない。そのコレオグラフィーはむしろ信じがたく複雑なのだが、それが極度に凝縮されることによって一見単純に見えるだけのことだ。いまやフォーサイスは、究極の迷宮とは直線であると喝破したボルヘスに近づいていると言うべきだろう。いや、あまりに精密な直線や鋭利な運動が目に見えないように、フォーサイスのバレエはほとんど不可視の域に近づいているとさえ言ってよい。
 これはベリオの『デュエット集』を使用した、フォーサイスとフランクフルト・バレエ団の作品『workwithinwork(邦題:働き合う作用)』について浅田彰が述べた文章だ。私は残念ながら作品を観ていないが、テニスのスロー映像を観て感じたことに近い。

演劇の目で観たスポーツ 終わりに (前編) _b0080239_4434776.jpg

 だがなんといっても、最近のスポーツの大会でサブリミナルのように繰り返し流され続けた映像は、W杯決勝戦ジダン頭突きのシーンだろう。この試合はライブ中継で観た。

 ゲームの一番の面白さは、やはり変わり続けるサッカー独自の科学にあると思う。こういうことをきちんと解説できるのは、専門家しかいない。おまけに私には、トップアスリートが集う試合を何回か観たことのあるテニスに比べて、サッカーは現場での体験がない。だから今まで以上に、ふだん舞台の身体を観ている目で思ったことを書いてみよう。

 まず目を疑ったのは、アスリートの反応の速さだ。後ずさりしながらの体勢から、相手の正面にすばやく正確に決めた頭突き。それがどういうことかを瞬時に判断し、確信しきって後ろへ倒れたマテラッツィ。その身体は、ドラマティック・バレエに出てくる死にかけた主人公(画像)のチープなパロディのようだった。近くにいたイタリアチームも自然な驚きの「OH」ではなく、憤怒をあらわにしたマイムで即座に反応する。
 要するにこの時のマテラッツィとイタリアチームは、吉本新喜劇と見紛うコントになる条件をいくつも揃えていた。にもかかわらず、「禍々しい騒然とした空気」を瞬時に組み立てたチームプレーに私は驚いた。そうした身体の見せ方や表情は、稽古しないでできるものなのだろうか。

 ところでサッカーのルーツの一つ「la soule」を紹介している「Le football」(DELF・DALF試験管理センター制作。上の画像をクリックすると詳細が読める)によると、それはこんな競技だったらしい。

プレー手段は乱暴で反則がなく、参加者の数もルールで決められておらず(略)
肉体的な手法はすべて試み、時にはずるさも省みないもので、
選手は、スール(干し草やおがくずを詰めたボール)に飛びかかりながら競技し、
手や足を使って争い、決められた場所にボールを置くまでゲームを続けました

 現代のプレーは、相手がもっとも嫌がる方法をつねに考え続け、その作戦を決められた人数で抜かりなく実行するなどいくぶん形式化した。
 が、試合の放送を観た限りでは現代のサッカーも、ボールを媒介にした荒い肉弾戦という先祖の面影を強く宿している。それに審判の見えないところでなら、「ずるさも省みない肉体的な手法」は、まだまだ試みられている様子だ。またある時は、審判にアピールするため演技もいとわない。ピッチ内での言葉の挑発も日常的だという。このようにレギュレーションの隙を突いたり、それを都合よく利用しようとする「人間のあくどさ」が発揮される瞬間は少なくなかった。

 つまりトップレベルのサッカーの試合を観ていると、すべては善悪両面ある相対的な存在で、簡単に善か悪かの二項に大別できず、そして人間は激怒していなくても「平和的にやるより大事なことがある」と思える生き物だ、ということがわかりやすい。試合という特殊な条件下で、それはぐちゃぐちゃした言葉を省いた身体にはっきりと現れている。

 とはいえ、たしかにジダンという選手(アルジェリア系移民2世・差別撤廃に関するメッセージを出していた・とても有名)が世界的な大会で、しかも試合の展開と直接関係ない場面で力に訴えてしまった行動は影響が大きそうだ。
 それにマテラッツィの「オレはものを知らないので、何をテロリストというのか知らないぐらいだ」という会見の言葉。あれは、子どもが言葉の意味を知らず人の反応を面白がって連呼するさまや、過去にも相手がそれを言われて怒った事実さえ知っていれば、手っとり早い挑発として使えることを、皆に思い出させただけだった。
 
 これに対しいくつかの報道では「子どもに(この出来事を)どう教えたらいいのか」という、思考停止も省みない言語的な手法が、積極的に試みられていた。「子どもにどう教えたら」には、しばしばセットで使われた言葉もある。「いずれにせよ暴力や不正はいけないですよね」だ。でもサッカーの身体を観ていると、この言葉は一筋縄でいかない現実を強引に絡めとってしまおうとしたり、正しくてよさげなことを言いたい、そんな結果の産物に聞こえてくる。自分もかつて子どもだった経験から考えると、こういう言葉より、自分の目の前の現実に時間をかけて関わり続けようとしてくれる大人の存在の方が、子どもにとっては大事だろう。 
by kouchiyama-simone | 2006-07-31 08:47




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